日语文章

护肤作者 / 月后网 / 2026-06-03 11:15
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中国人と日本人は颜つきもあまり変わらないし、汉字も共有しています。 日本の文化は中国から多くのものを得てきています。 それだけにお互いに中身も简単にわかるように思いますが、そうはいかない。 とくに表にあらわれない中身や意识や考え方など、日本と中国の间にはかなりの违いがあるようです。 风俗习惯でも形は同じだが、中身は违うというものが多い。 例えば、十二支は中国から渡って来たもので、动物に结びつけるのも十二支と同じです。

日本人の「ワリカン」の习惯が中国にはありません。 私は日本に来て最初に年上の先辈から「ご饭を食べに行きませんか」と闻かれたので、当然その人が御驰走してくれるのだと思い喜んでついていきました、しかし、食事が终わったら「あなたはいくらですか」と言われてビックリしました。 自分の分は自分で払うのだそうです。 そんなことなら一人で自分の食べたいものを食べるんだっと腹が立ちました。 中国には「ワリカン」と言う习惯はありません。年长者、上司が会计(かいけい)を持ちと同じ、仲间であってもその日诱った人が払うというのが普通です。

「すみません」に対する中国语は「対不起」(トイフチ)と言いますが、これがどても分かりにくいのです。 日本ではすぐ「すみません」と言います。 道を闻くときに「すみません」。 これは相手の足を止めさせて申し訳ないという気持ちなので、よしとしますが。 レストランでの「すみませんお水を下さい」もお手数をかけるのであるからわからないでもない。 しかし「すみません会计して下さい」はおかしいです。 御驰走して贳うならすみませんだが、代金を払うのになぜ谢る必要があるのでしょうか。

などというのは野暮な话のようですが。 今の日本语の「すみません」は陈谢语と言うより呼びかけの谦譲语と言ったほうがいいです。 ところが自动车接触事故を起こした场合などは「すみません」と言わないほうがいいと教えて贳いました。 谦譲语のつもりで言ってもこちらの责任を认めたことになり、话し合いの时に条件(じょうけん)が不利になるのです。 情けないの话ですが、これが社会の现実でしょう。

まだ日本に来てばかりですが、今まで色々と言语、习惯、风俗について日中の差を见て来ました。 そして同じような文化でありながらその内容はかなり违うと言う事も判りました。これをもって、日本と中国仲良く付き合えるように、力になりたいと思います 与中国和日本也少不变的是颜色或汉也共享。 日本文化从中国证明以来,很多东西。 它只是为了彼此也容易刮,但你只可以看到了。 在日本,如内容不可见特别是表和识别任何思想和中国有很大不同,但似乎。 风民俗形式是相同的内容不同,是很多。 例如十二生肖是什么在从中国来,对动物的结果也练习踢中国生肖相同。

分裂中国的日本海关的检查。 我来日本的高级的第一次高级"请收藏到饭否治疗?"问干涸,当然该人是运行您驰觉得高兴满意之后,但周梁淑怡议员最终满意的说:"你无论多少?"和感到吃惊。 他们的薪酬是自己 如果这种事很生气,我吃什么我的人。 你不会说"韩国"中国海关。你的老板长会议规划 (出纳员),有同一的关系部门,但这都是很正常的诱的人支付。

是说"与看不起中国人"的"Sumimasen"(トイフチ) 的中国,但这也是难以捉摸的东西。 日本说真难过。 要问上"很抱歉"驾驶时的路。 很抱歉让我这种感觉停下来同对手的脚,所以你会让它去。 在餐厅"对不起找水"也不知道因为它需要调用。 但是"对不起请会议规划"是可笑的。 您的驰运行和贳在呻吟,爱,谢谢你支付的原因吗?。

例如,粟是。 现在我所建议的日本的"对不起",并说陈谦让调用感谢英语说。 然而,如汽车去培训联系人的事故,如果说,你最好原谅我,告诉贳了。 说谦的用意是让负责在这里第一次验证和对,说的和其他时间条件 (条件) 关于对去。 可怜虫的说,但这将向现实社会。

但现在来日本只是,普遍有关海关谢说英语,天差看看了。 类似的文化和其内容很差的同时,也说事物都是有时间。能当中国与日本这一起,我想要的权力

中日文俱全

找一篇1000字的日语文章

私はとてもテニスをしなければならない。が、そのたびにはラケットを锻えが终わった後だと思っていますが、时には甚だしきに至っては実现も払えないです。しかし、私は依然としてテニス运动をしている。私は毎回食事も食べるのがとても遅くて、でも、あなたの话を闻いて、テニスへ行くには、私は、食べるのをゴクゴク谁よりも早く、そして私を催促してお父さんも早く良くて、早くまで送っテニス场だ。私の母亲は、もし私にテニスをしているように読书に兴味を持ち、成绩はきっととてもよかった。冬のときである。外の天気はとても寒くて、私の方が好きで部屋に絵が宝物だが、もし川止めりこテニスを1天気がどんなに寒くて、私が私の父に行っテニスをする。一度は、空からた大雪で、お父さんは今夜は行かないようにしたが、私は坚持してお父さんかと讯いてみた。テニス部今日かどうかはテニスをする。今日の训练までクラブで返事を取り消しまでとなっている。テニスの监督の指导の下で、わたくしの勤勉に努力して、私のテニスの水准が向上し、私が主流になっている最高に楽しかっもますます好きこのスポーツをしました。今回の騒ぎで、私にまとめたのとすれば、それに、いくら何を勉强し、気をつけて行って勉强するなら、でもとは大きな収获だった。

わたしが支那(しな)の芝居を见たのは过去二十年间にたった二度だけであった。前の十年は绝対に见なかった。また见ようという意思も机会もなかったから、その二度はどちらも后の十年のうちで、しかもとうとう何の意味をも见出さずに出て来たのだ。

第一囘は民国(みんごく)元年、わたしが初めて北京(ペキン)へ行った时、ある友达から「ここの芝居は一番いいから、以て世相を见てはどうかナ」と言われて、「芝居见物も面白かろう、まして北京(ペキン)だもの」と大(おおい)に兴じてすぐに何やら园とかいう処へ行ったら、もう世话物が始まっていて、小屋の外には太鼓の响が泄れていた。わたしどもは木戸口を入ると、赤いものだの、青いものだの、几つも眼の前にキラめいて、舞台の下にたくさんの头を见たが、よく気をつけて见なおすと、まん中にまだ几つかの空席があったから、そこへ行って坐ろうとした时、わたしに向って、何か言った者があった。最初はガンガンという铜锣(どら)の音で、よく闻えなかったが、注意して闻くと、「人が来るから、そこへ坐ってはいけない」というのだ。

わたしどもはぜひなく后ろへ引返して来ると、辫子(べんつ)のぴかぴか光った男が、わたしどもの侧(そば)へ来て一つの场所を指さした。その场所は细长い腰挂で幅はわたしの上腿(じょうたい)の四分の三くらい狭く、高さは下腿(かたい)の三分の二よりも高い。まるで拷问の道具に好く似ているので、わたしは思わずぞっとして退(しりぞ)いた。

二三歩あるくと、友达が、「君、どうしたんだえ」とわたしのあとから跟(つ)いて来た。

「なぜ行(ゆ)くのだ。返辞(へんじ)をしたまえな」

「いやどうも失敬、なんだかドンドンガンガンして、君のいうことはサッパリ闻えないよ」

あとで考えてみると、全く変なことで、この芝居はあまり好くなかったかもしれない。でなければわたしは舞台の下にじっとしていられない质(たち)なんだろう。

第二囘はいつのことだか忘れたが、とにかく湖北(こほく)水灾义捐(ぎえん)金を募集して谭叫天(たんきょうてん)がまだ生きている时分だ。その募集の方法は、二元(えん)の切符を买って第一舞台で芝居见物をするので、そこに出る役者は皆名人で、小叫天(しょうきょうてん)もその中にいた。

わたしが切符を一枚买ったのは本来、人の勧めに依った责め塞げであったが、それでも谁か、叫天の芝居は见ておくものだ、といったことがあったらしく、前年のドンドンガンガンの灾难も忘れてつい第一舞台へ行って见る気になった。まあ半分は、高い価(あたい)を出した大事の切符を使えば気が済むのでもあった。

わたしは叫天の出る幕が遅いと闻いていたので、第一舞台は新式の剧场だから座席を争うようなことはあるまいと、わざと九时まで时を过してやっとこさと出て行った。ところが、その日も相変らず人が一杯で、立っているのも六ツかしいくらい。わたしは仕方なしに后方の人込(ひとご)みに揉まれて舞台を见ると、ふけおやまが歌を唱(うた)っていた。その女形(おんながた)は口の辺に火のついた纸捻(こより)を二本刺し、侧に一人の逻卒(らそつ)が立っていた。わたしは散々考えた末、これは目莲(もくれん)の母亲らしいな、と想った。あとで一人の和尚が出たから気がついたので、さはいいながら、この役者が谁であるかを知らなかった。そこでわたしの左侧に押されて小さくなっていた肥えた绅士に讯いてみると、彼はさげすむような目付でわたしを一目见て、「云甫(こううんほ)」と答えた。わたしはひどく极(きま)りが悪くなって颜がほてって来た。

同时に头の中で、もう决して人に讯くもんじゃないと思った。そこで子役を见ても、女形(おやま)を见ても立役(たてやく)を见ても、どういう质(たち)の役者が何を唱っているのか知らずに、大势が入り乱れたり、二三人が打合ったり、そんなことを见ている间に九时から十时になった。十时から十一时半になった。十一时半から十二时になった。――そうして叫天はとうとう出て来なかった。

わたしは今まで何事に限らずこんなに我慢して待ったことはなかった。いわんやわたしの侧にいた绅士はハーハー息をはずませて肥えた身体(からだ)を持てあましていた、舞台の上のどんちゃん、どんちゃんの囃(はやし)や、红(あか)や绿のまぶしいキラめき。その时十二时だ。たちまちわたしはとてもこんな処にいられないと思った。同时にわたしは机械的に身を捻(ねじ)って力任せに外の方へと押出した。后ろは一杯の人で通る路(みち)もなかったが、大概その弾力性に富んだ肥えた绅士が、早くもわたしの抜け出したあとに、彼の右半身を突込んだので、わたしは自然に押され押されて木戸口に出てしまった。

街は観客の车以外にはほとんど一人も通行人がなかった。それでも木戸口には十何人か头を昂(あ)げて芝居の番附(ばんづけ)を见ていた。外に一かたまりの人が、何にも见ずに立っていた。わたしは何にも知らずに来たことを我れながら悔んだが、结局芝居の题目さえも忘れてしまった。

わたしが実际いい芝居を见たのは、それよりずっと前の事だ。

その时おそらくまだ十一二にもならなかったろう。わたしども鲁镇(ろちん)の习惯は、およそ谁でも嫁に入(い)ったむすめは、まだ当主にならないうちは、夏の间たいていは里方に行って暮すのである。その时分わたしの祖母はまだ达者であったが、母もいくらか家事の手伝いをしていたので、夏も长く帰っていることは出来なかった。ぜひなく墓扫除をすましたあとで、二三日の暇を见て抜け出して行(ゆ)くのであった。わたしは母亲に跟いて外(がい)祖母の家(うち)に游びに行ったことがある。そこは平桥村(へいきょうそん)と言って、ある海岸から余り远くもないごくごく偏僻(へんぴ)な河添いの小村で、戸数がやっと三十くらいで、みな田を植えたり、鱼を取ったりそういう暮しをしている间に、ただ雑货屋が一轩あるだけであったが、わたしに取っては极楽世界であった。ここへ来れば优待されるのみか「秩秩斯干幽幽南山(チーチースーハンユウユウナンシャン)」などというものを念らなくともいいからである。

わたしと一绪に游ぶいろいろの小さな友达が远客が来たので、彼等もまた父母の许しを得て、仕事を控えてわたしのお相手をした。小村の中の一家の客もほとんど大概芝居のハネたあとの女を见に行くことを考えていた。しかし叫天はそこにもやッぱりいなかった……

さはさりながら夜の空気は非常に爽(さわや)かで、全く「人の心脾(しんひ)に沁む」という言叶通りで、わたしが北京(ペキン)に来てからこの様ないい空気に遇ったのは、この芝居帰りの外(ほか)にはなかったようにも覚えた。

この一夜(ひとよ)はとりもなおさず、わたしが支那芝居に告别をした一夜で、もう一度そんなことに遇おうとも思わず、たまたま芝居小屋の前を过ぎても、わたしどもとはまるきり関系がなく、精神がすでに一つは天の南にあり、一つは地の北にあった。

けれどもその二三日前にわたしは思いがけなくある日本の本を読んだ。惜しいことには本の名前も著者の名前も忘れてしまったが、とにかく支那芝居に関することで、その中の一篇をかいつまんでいうと、支那芝居は无暗に叩き、无暗に叫び、无暗に踊り、観客の头を昏乱(こんらん)させるから、剧场向きではないが、野広(のびろ)いところで远くの方から见ていると、自然に面白味がわかって来ると书いてあった。わたしはその时そう思った。これはいつもわたしの胸の中にあってまだ言い出したことのない言叶だと。だからわたしはいい芝居は野外で见られるものと、しっかり覚えていた。北京(ペキン)へ行ってからも芝居小屋に二度入ったが、やッぱりあの时の影响を受けたのかもしれない。何しろこれは公共のものではないか。

わたしどもは年顷もおつかつだったが顺序から言えば一番下の弟だ。外(ほか)に几人も目上の者がある。村じゅうは皆同姓で一家であった。そうはいうもののわたしどもは友达だ。喧哗でもして年上の者を打つと一村の者は老人も若い者も、目上という言叶を想い出せない。彼等は百人中、九十九人は字を知らなかった。

わたしどもの日々の仕事は大概蚯蚓(みみず)を掘って、それを针金につけ、河添いに挂けて虾(えび)を钓るのだ。虾は水の世界の马鹿者で远虑会釈もなしに二つの铗で钩(はり)の尖(さき)を捧げて口の中に入れる。だから半日もたたぬうちに大きな丼に一杯ほど取れる。その虾はいつもわたしが食べることになるのだ。その次は皆と一绪に牛を饲うのだがこれは高等动物のせいかもしれない。黄牛(おうぎゅう)も水牛も空をつかってわたしを马鹿にする。わたしは侧へゆくことが出来ないで远くの方で立っていると小さな友达はわたしが「秩秩斯干(チーチースーハン)」が読めることなど顿著(とんじゃく)なしに寄ってたかって囃(はや)し立てる。

わたしがそこにいて一番楽しみにしたのは、赵荘(ちょうそう)へ行って芝居を见ることだ。赵荘は比较的大きな村で平桥村から五里离れていた。

平桥村は村が小さいので、自分で芝居を打つことが出来ないから、毎年(まいねん)赵荘にいくらかお金を出して一绪に芝居を打つのである。その时分わたしは、彼等が何のために毎年(まいねん)芝居を催すか、ということについて一向无顿著(むとんじゃく)であったが、今考えてみると、あれはたぶん春祭(はるまつり)で里神楽(さとかぐら)(社戯(ツエシー))であったのだ。

とにかくわたしの十一二歳のこの一年のその日はみるみるうちに到著した。ところがその年は本当に残念だった。早く船を頼んでおけばよかったのに、平桥村にはたった一つ大きな船があるだけで、それは朝出て晩に帰る交通机関で、决してよそ事には使えなかった。そのほか小船はあるにはあるが、使い途(みち)にならない。隣の村に人をやって讯いてみたが、もうみんな约束済であいてる船は一つもない。外祖母は大层腹を立て、なぜ早く注文しておかないのだ、と家(うち)の者を叱り飞ばした。母亲は外祖母を抚(なだ)めて、「わたしども鲁镇は、小さな村の割合に芝居を多く见ているのですよ。一遍ぐらいどうだっていいじゃありませんか」と押止(おしとど)めた、だが、わたしは泣きだしそうになった。母亲は势限(せいかぎ)りわたしをたしなめて、「决していやな颜をしちゃいけませんよ。おばあさんが怒ると大変です」と言って、それから谁(たれ)とも一绪に行(ゆ)くことを许さなかった。「おばあさんに心配させるものではありません」とまたあとで言った。

それはそれでとにかくおさまったが、午后になるとわたしの友达は皆行ってしまった。芝居はもう开(あ)いているのだ。わたしは远音(とおね)に囃(はやし)を闻いて、「今顷は友达が舞台の下で、豆乳を买って食べてるな」と想った。

その日は一日、钓りにも行(ゆ)かず物もあまり食べないで母亲を困らせた。晩饭の时分には外祖母もとうとう気がついて、この子がすねるのも无理はないよ。あの人达はあんまり无作法だ。お客に対する道を知らないといって叹息した。

饭を食ってしまうと、芝居を见に行った子供达は皆帰って来た、そうして面白そうにきょうの芝居の话をした。ただわたしだけは口もきかずに沈んでいると、彼等は皆叹息して気の毒がった。

双喜(そうき)という子供は中でも贤い方であったが、たちまち何か想い出して、「大船ならあれがあるぜ。八叔(はちおじ)の通い船(ぶね)は、帰って来ているじゃないか」

十几人のほかの子供はこの言叶に引かされて勇み立ち、あの船で一绪に行こう、と皆立上った。わたしはようやく元気づいた。けれど外祖母は子供だけじゃ安心が出来ないと言った。母亲も、「谁(た)れか一人大人を附けてやりましょう」と言ったが、大人は昼の仕事に労(つ)かれているので、夜頼むわけにはゆかない。どうしようかと考えている中(うち)に、双喜はまた何かいい事を想いついたようで大声上げて言った。

「わたしが引受けます。船は大きいし、迅(じん)ちゃんはおとなしいし、わたしどもは泳ぎがうまいし、こんなら大丈夫です」

まったくそうだ。この十几人の子供は実际一人だって、鸭の仲间でない者はない。その上二三人は大潮を乗切った者さえある。

外祖母も母亲もようやく安心して今はもう何とも言わずにただ笑っていた。わたしどもは一斉に立上っておめき叫んで门を出た。

わたしの重苦しい心は、急に軽く晴れやかになった。身体ものびのびして大きくなったように思われた。门を出ると月下の平桥(へいきょう)には白い苫船(とまぶね)が繋(もや)っていた。みんなは船に跳び込んだ。双喜は前の棹を引抜き、阿发(あはつ)は后ろの棹を抜いた。年弱(としよわ)の子供は皆わたしに附いて中の间に坐った。年上の子供は船尾に聚(あつま)っていた。母亲は送って来て「気をつけておいでよ」と言った时には、もう船は出ていた。桥石にぶつかって二三尺退(しりぞ)いたが、すぐまた前に进んで桥を通り抜けた。そこで二梃(ちょう)の橹(ろ)をつけて、一梃に二人がかかって一里行(ゆ)くと交替した。笑う者もあった、喋舌(しゃべ)る者もあった。その声は水を切って行(ゆ)く音と入り交った。左右はみな青々とした豆麦の畑をとおす河中に、われわれは飞ぶが如く赵荘さして进んだ。

両岸の豆麦と河底の水草から発散する薫(かおり)は、水気の中に入りまじって面(おもて)を扑(う)って吹きつけた。月の色はもうろうとしてこの水気の中に漂っていた。薄黒いデコボコの连山は、さながら勇跃せる鉄の獣(けだもの)の背にも似て、あとへあとへと行(ゆ)くようにも见えた。それでもわたしは船脚(ふなあし)がのろくさくさえ思われた。彼等は四度(よたび)手を换えた时、ようやく赵荘がぼんやり见え出して、歌声もどうやら闻えて来た。几つかの火は舞台の明りか、それともまた渔りの火か。

够1000了吧

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